世界最大の占星術学校 ~ BVB


Bharatiya Vidya Bhavan – New Delhi, India

最初から占星術にハマっている人もいますが、たいていの人は、占星術を趣味として学び始めます。そうして、だんだんと占星術を学んでいくうちに、実はそれが神聖な科学であり、それによって自分自身やまわりの人たちの人生をよりよく理解できることを知ります。そうなると、もう占星術から抜け出せなくなります。それは、この地球に住む、数少ない人間の一人になったことを意味します。つまり、いわゆる世間一般で認識されている占星術――ゴシップ・ネタを提供する手段としての占星術、あるいは単なる「占い師」の手段としての占星術――を超えた、真の占星術の姿を知る、数少ない一人となるのです。そうなると、本棚に入りきらないほどの本を買いあさり、幾夜となく夜遅くまでチャートとにらめっこしている自分に気づくのも時間の問題です。

しかし、占星術の道は孤独です。たしかに鑑定を受けたり、講座に出たり、挙げ句の果てに国際会議に出席することもできますが、結局は、自分でやらなければならないことに変わりはありません。通信コースもありますが、占星術は多くの著名な科学者が認知しているにもかかわらず、世間一般では正当な科学として認められていません。インドのごく一部の大学を除いては、正規科目として大学で教えられることもありません。

占星術 ~ 認知され得ない超科学

占星術は、ギリシャをはじめとして、バビロニア、中国、ローマ、インドなどのほとんどすべての古代文明においてその痕跡が認められているのにかかわらず、科学として認知されていません。たいへん皮肉な話です。占星術は世界で最も古い学問です。天文学の母です。古来、コペルニクスやケプラーをはじめ、西洋の多くの偉大な天文学者は、占星術家でもありました。東洋においても、たとえば『聖書』では、東方から現れる三人の賢者は占星術家でもあると記されています。しかし今日の占星術は、学問の世界では貶められた地位に甘んじています。占星術を学ぶものは、ときとして有名な学者や大学教授たちからの冷笑や嘲りを覚悟し、恐れながら、占星術を実践しなければなりません。

たとえば、スイスの有名な心理学者、カール・ユング(下)が占星術を精神分析に使用しているとフロイトに告げたとき、彼は、フロイトや学会から決別することを覚悟していました。

研究の課題

学会などからの支援が得られず、占星術家は、研究を進めるにあたって困難な時期を過ごさなければなりませんでした。研究なくしては、占星術は、それに値する評価を得ることはできません。それは、ジレンマの状態とも言えます。雑誌や新聞では、占星術のコラム記事が氾濫していますが、だからといって占星術が学問として認知されているとは思えません。それどころか、占星術は科学の分野から迷信の分野へと、ますます貶められている感があります。

今日、占星術という職業は、認知されない、資格もない、実質的に不安定な職業です。だれでも占星術家と名乗ることができます。だから、占星術家はいかさま師呼ばわりされ、軽く扱われるのです。そしてインターネットが爆発的に普及した今日、だれからの制約もなしに、だれでも、世界に向けて占星術家の看板を掲げるようになりました。

Sh.K.N.ラオの業績

KNラオは、この占星術にまつわる問題を、とうの昔から認知していました。ラオは、占星術を科学的に研究し、再現性のある、確固たる結果を導きだし、占星術を神聖な科学として蘇らせる必要性を感じていました。

ラオは、昼は政府の役人として公務に就きながら、夜は帰宅してから、聖仙パラシャラや聖仙ジャイミニの古典を検証して先駆的な業績をあげました。ラオは、研究から得た知見を占星術の雑誌や書籍というかたちで発表し、インドでもっとも優れた占星術家として認知されるにいたりました。彼の予言の多くは、目が眩むほど正確に適中し、そのせいもあって彼の名声はますます広まりました。

ヨーギームールカンダジの予言

しかし、ラオが有名になればなるほど、それがかえって占星術にとっては仇となりました。占星術を通して自身のカルマを認知し精神性を高めるのではなく、ほとんどの人は、お金や仕事や結婚という、マンデーン(経済社会的な話題)にしか関心を示さなくなることに、ラオは気づきました。それを見て、ラオは、占星術をいっさいやらないと決心しました。

それからしばらくたった1980年のことです。すべてがひっくり返るようなことが起きました。偉大なヨギ、ムーラカナンダ師が、ラオに言いました。

「このジョーティシュ(占星術)の知識は、失われているわけではない。夕日のように隠れているだけなのだ。やがてそれが復活するときがくる。そのとき、あなたはそれを復活させる媒体となるだろう」

ムーラカナンダ師は、ラオがこのミッションを避けることはできないと諭し、彼が占星術を諦めることを禁じました。それは彼のカルマなのだと。

ムーラカナンダ師の言葉について、ラオは次のように書いています。

「このようなマハトマ(偉大な魂)の言葉を信じているので、わたしは、いつかインドでわたしの時代がくるだろうことを予感していました。いずれチャンスが訪れ、そのときに占星術のミッションを果たす時がくるのだと。同様のことを、他の人からもほのめかされたことがあります。しかしだれもムールカナンダ師ほどはっきりとは言いませんでした」


Yogi Moorkhanandji and Sri K.N. Rao in 1981

占星術学校バーラティーヤ・ヴィディヤー・バヴァン

ムールカナンダ師に勇気づけられ、KNラオは、いったんは諦めていた占星術の研究を続けることにしました。お金も取らずに鑑定し、研究と執筆だけに没頭しました。教える時間が足りなくても、ラオから占星術を学びたいという生徒が自然と集まりだしました。ラオのカリスマ、明確なものの言い方、古典の幅広い知識と深い理解、そして、オリジナルな研究成果を土台にしたシステマティックな研究手法は、自然と多くの人を引きつけました。

そして1980年代の後半、ラオがデリーに転勤になってから、だんだんと占星術学校を開こうという空気が醸成されはじめました。やがてラオは、インドの古典文化を保存するという名目で、バラティヤ・ヴィディヤ・バーヴァン(the Bharatiya Vidya Bhavan)という名称の占星術学校をニューデリーに開校するというプロポーザルを提出する機会に恵まれました。そのプロポーザルは受諾されました。二年のカリキュラムで、ジョーティシュ・アランカー(Jyotish  Alankar)とジョーティシュ・アーチャリア(Jyotish Acharya)という二つの学位を認定する占星術の教育機関として、1987年7月、バラティヤ・ヴィディヤ・バーヴァンは初めての生徒を迎えました

Sh.K.N.ラオに会う

わたしが始めてわたしの先生であるKNラオ氏に会ったのは、1993年の秋、ラオが始めてアメリカを訪れた時のことでした。ラオは、ニューメキシコのサンタ・フェにあるヴェーダ研究者、デヴィッド・フローリー宅で雑談をしていました。ラオの学校(バラティヤ・ヴィディヤ・バーヴァン)は、当時すでに大成功を納め、アメリカのヴェーダ占星術協会(ACVA)から注目されていました。フローリーは、当時ACVAの会長でしたが、ラオの学校を訪れ、その年の秋にサン・ラファエルで行われるヴェーダ占星術の第2回国際シンポジウムの基調講演者としてラオを招待したのでした。

KNラオのミッションは、これ以降、世界的な広がりを見せ始めました。インド出身の占星術家で、ラオほど、西洋の観客を魅了した人はいませんでした。ラオの訪米は、西洋におけるヴェーダ占星術に一石を投じ、それ以降、西洋では、「ラオ以前のヴェーダ占星術」と「ラオ以降のヴェーダ占星術」という明確な区別ができるほどのインパクトを与えました。

しかし、ラオの名声が世界中に響き渡るにしたがい、ラオは逆にインド国内にとどまるのを好み、学校の運営に集中するようになりました。1997年4月、ラオは、インド占星術の研究季刊誌「Journal of Astrology」を創刊し、バラティヤ・ヴィディヤ・バーヴァンで進行している研究成果を発表し始めました。「Journal of Astrology」の発行巻数はすでに25を超え、世界各国に読者がいます。

世界最大の占星術学校

2000年の春、わたしは1ヶ月間を、ニューデリーのバラティヤ・ヴィディヤ・バーヴァンでKNラオを始めとする優秀な教授陣と過ごす栄誉に恵まれました。もうすでに世界最大の占星術学校として知られて久しいバラティヤ・ヴィディヤ・バーヴァンですが、当時、すでに850名の生徒と、26名の教授陣を擁していました。わたしにとっては、それは毎週末がヴェーダ占星術の世界シンポジウムのような感じで、たいへん興奮して過ごしたのを憶えています。

KNラオの指導により、多くの先生が本を書いています。それらの本は、コースで使われるだけでなく、この分野におけるユニークな貢献ともなっています。すでに、M.S. Mehta, Col. A.K. Gour, Manoj Pathak, Naval Singh, Deepak Kapoor, K.K. Joshi, Dr. K.S. Charak, Shiv Raj Sharma, Vinay Aditya, C.B. Prasadらによって本が書かれています。これらの本は、ラオの研究とコースの成果物でもあります。世界中どこを見渡しても、学問的にも科学的にもこれほど高い水準に到達した占星術は見あたりません。わたし個人としても、彼らの書籍や雑誌にはたいへんお世話になっています。それらには、いつも多くの例題が示され、それによって、古典の原則をどのように現代の文脈で解釈すればいいのかがわかります。

バラティヤ・ヴィディヤ・バーヴァンに到着して、わたしはすぐに理解しました。KNラオのアプローチは、間違いなく高度で、システマティックで、実践的で、しかも厳密だということが。ラオは、生徒みんなに、すぐその場で計算すようにしむけます。しかもできるだけ紙と鉛筆も使わずに、そらで計算するようにしむけるのです。コンピュータを使うなどと言うのは、もってのほかです。ラオは、生徒たちの理解が理論だけで終わらぬよう、実例を使って学習できるように工夫していました。毎回、課題を出して、紙の上で古典の原則を使わせるようにしむけているのです。1年生といえども、実は多くは、西洋のプロのインド占星術家よりも多くのことを知っているということがすぐにわかりました。

こんなダイナミックな環境でインド占星術を学んだのは初めてでした。季刊誌の発行は、このシステムの中でもたいへんすぐれた部分です。かつてKNラオが役人時代に毎晩進めていた種類の研究が、いまは数百という生徒と教授陣の援助を得て進行しています。それらの成果はやがて雑誌の記事というかたちで結実するのですから、生徒にとってもやりがいがあります。また、生徒個人にも、研究成果を書籍というかたちで発表する機会が与えられています。たとえば、獣医の専門家である生徒は、獣医のチャートに見られる共通点を探し出すという課題が与えられます。

このようなすばらしい教育環境の中にいると、学問的にもたいへんな満足感が得られます。たとえば、KNラオが担当するあるクラスでは、インド前首相、故ラジフ・ガンディーの人生に起きた出来事を、複数の異なるダシャーで検証しました。実は、解釈の精度を上げるために複数の異なるダシャー・システムを併用する、このコンポジットシステムと呼ばれる方法は、ラオが前々から提唱しているものです。ラオはまた、古典に記載されている、多くのダシャー・システムを復活させ、それらが現代の文脈においても適用できることを証明して見せています。

古代の伝統を復活させる

学問の世界で、占星術がちゃんとした科学であり、学問の一分野なのだと認知されるまでには、まだ時間がかかるでしょう。しかしKNラオを始めとするバラティヤ・ヴィディヤ・バーヴァンの生徒と教授たちは、この目標に向かって偉大な貢献をしています。間違いなく、KNラオの学校は、占星術に関する、もっとも洗練された、再現性のある、科学的な研究成果を生み続けています。ラオの学校は、学術的なレベルの高さにおいて、他の占星術学校のよい見本となっています。このように、ヴェーダ占星術の古代の伝統が聖なる科学として蘇りつつあるのを見て、ムールカナンダ師や偉大な聖仙たちがさぞや喜んでいるに違いない、と思わずにはおれません。インド占星術は、ラオが言う「ニューエイジの超科学」として、いずれ確立されるに違いありません。

Sh.K.N.ラへとのインタビュー ~2004年1月

ポール: 占星術学校バラティヤ・ヴィディヤ・バーヴァンの歴史を話して頂けますか?いつ設立されたのか、いつ頃から構想があったのか、最初の意図はなんだったのか、を話して頂けますか?

ラオ: 1972年、ビハール州東部のパトナにいたとき、弁護士の友人の甥が占星術を間違って理解したがために、悲惨な結論を導いて、深刻な結果を招いていました。それで彼に、きちんとした占星術を教えなければいけないと感じていました。彼には、ちまたの占星術の本に書いてある知識を誤って使うなと言って叱りました。他の生徒も加わって、インドの大学でサンスクリットを学ぶ時とは異なったスタイルで、試しに始めてみました。なにも暗記させずに教えるこの方法は、すぐにうまくいくことがわかりました。カルカッタやデリーに赴任しても、それを続けました。行く先々で5人から15人程度の小さな勉強会ができました。

1985年、全インドの占星術家の組織が発足したとき、わたしは加入する気にはなれませんでした。加入するように強く説得されたので、わたしは条件を出しました。それは、「占星術の教育を導入し、それをメインで重要な活動項目とすべし」というものでした。           1987年、ブーバネシュワールからデリーに戻ってきた時、これを組織的な方法で導入することを決意し、バラティヤ・ヴィディヤ・バーヴァンを思いつきました。バラティヤ・ヴィディヤ・バーヴァンは、バラティア、すなわちインドの伝統的なヴィディア(知識)の習得を励ますのが目的です。1987年7月に学校は開校しました。

この学校の意図は、天文学を教えた後、インド占星術の様々な分野を、システマティックに教えることにあります。

ポール: 先生と生徒はそれぞれ何人いるのですか?あなたの役割はなんですか?

ラオ: 現在、生徒は850人、先生は26人います。わたしは3つの研究科コースだけを担当しています。研究科コースは、上級のコースです。このコースでは、生徒は研究し、記事を書き、毎月のワークショップや半年おきに開かれるセミナーで発表するよう義務づけられます。彼らをいろんなところへ連れて行ったりもします。主に巡礼が目的ですが、セミナーを兼ねた巡礼をすることもあります。わたし自身の役割については考えたことはありません。それは神のみぞ知る、です。いつも向こうの方からやってきて、自然とそれに巻き込まれているといった感じです。たとえば、2000年、占星術をインドの大学のカリキュラムに取り入れるという話がありました。サンスクリットの大学ではすでに取り入れられていたのですが、左翼系の人たちや学者たちがそれに反対して裁判を起こしていました。最高裁までいって争われました。2003年11月4日に公聴会が開かれました。インドの法律では、このような裁判では、弁護士でなくても、発言する機会が与えられます。わたしは弁護士ではないのですが、裁判で発言しました。わたしは、この大論争では占星術のために戦ったただ一人の占星術家でした。他の占星術家たちはみな、ずっと蚊帳の外にいました。法廷では、たいへん多くの人が傍聴していましたが、みんなわたしの話に聞き入っていました。その場にいた位の高い弁護士からは、わたしの発言はたいへん説得力があったと言われました。そのうちのひとりは、この裁判では勝訴するだろうとこっそり教えてくれました。まだ(2004年1月の段階)、判決は出ていません。しかし数週間から数ヶ月後には出るでしょう。

ポール: インドの太古の占星術のシステムを保存しようと思ったのはどういうきっかけからですか?

ラオ: 1980年に、偉大なヨギ、ムーラカナンダ師から言われました。わたしが、そうするだろうし、そうしなければならないと。しかし、今でもそうですが、銀行になんの預金もありませんでした。家も車もありません。しかし、ムールカナンダ師は言いました。もし、それが神の意図なら、そんなハンディがあっても、それは起こるでしょう。そして、それが起こったのです。

ポール: だれがそのあなたの情熱を焚きつけたのですか?

ラオ: 最初は母親です。そしてジョーティシュ・グルであったバスカラナンダ師(右)、そして最後は、ムーラカナンダ師に、オリジナルな研究を続けるようにと励まされました。いったん始めると、本業があるのにもかかわらず、1990年に退官するまで続きました。退官後は、一人でやってきましたが、いまでは多くの生徒とともにやっています。

ポール: はじめから研究の成果を雑誌で公表しようと思っていましたか、それともそれは後から思いついたのですか?

ラオ: 何年もの間、いろんな占星術の雑誌に投稿していました。一般の雑誌、技術的な雑誌、英語の雑誌、ヒンズー語の雑誌など、いろいろでした。バラティヤ・ヴィディヤ・バーヴァンの雑誌を刊行しようと思ったのは、権威付けのためです。指導から編集、リライトまで、すべての責任をわたし一人で負いました。需要がだんだん増えてきたので、雑誌を英語とヒンディー語のバイリンガルにしました。

ポール: あなた自身、あるいは生徒や先生で行った最新の研究成果はなんですか?

ラオ: ダシャーですね。いろんなダシャー。ドゥイサプタティ・サーマ・ダシャー、チャトゥルシェーティ・サーマ・ダシャー、ヨーギニー・ダシャーなどが、結実しました。スティラ・ダシャーも完成しました。ヴァラナシ・ホラの共同研究も完成しました。さらに、多くの細かい研究もあります。

ポール: 学校の将来の方向性についてはいかがでしょうか?ラオ:ここ数年やってきたように、統計的で再現性のある研究を継続し、学校の伝統としたいですね。痛みを伴うこの研究を継続できる人は、少ししかいないでしょう。しかし、誰かがやるはずです。

ポール: まだやり残したことで、やりたいと思うことはなんでしょうか?

ラオ:実に多くのことがまだやり残したままです。社会は常に変化していますから、課題は常に発生し続けます。たとえば、教育機関での研究課題は、たくさんあるはずです。わたしたちの生徒も、一生懸命取り組んでおり、いずれその分野で最初の本を出版することになるでしょう。そうなると多くの占星術家がきちんとしたカウンセリングを教育分野においてできるようになります。学生がどの分野を選択したらいいのかという問題は、心理学では解決できません。この本は、アメリカ人やロシア人などのインド人以外の国の人のホロスコープも含んでいますので、ここでの研究成果が外国でも適用できる普遍性があることの証明になるでしょう。

ポール: これまでにあなた自身や学校の教師や生徒が行ってきたことで、誇れることがあるとしたらそれはなんでしょうか?

ラオ: 週末の学校なので、週に2日しか会うことができないという制限がありますが、その代わり、自宅に生徒を呼んで、もっと深い議論をすることで補っています。これまでに40冊以上の本を出版してきましたが、32冊はわたしのです。生徒は、たいへんすぐれた研究を行っており、それはわたしの誇りであると同時に、喜びでもあります。しかし本当はなにも誇りに思ってはいません。結局わたしたちは何者でもないのです。神の意志のみが現象化するのであって、わたしたちは、それを体現させる道具でしかないのです。

ポール: ヴェーダ占星術を学ぶ人たちに対してアドバイスがあれば、どうぞ。

ラオ: 本に書いてあることを文字通り受け取ったりせず、もっと自由に解釈するようにしてください。時代は変わるのです。古典の法則といえども、常に新しい使い道を試すようにしてください。